M先生のレポートより
万葉集3957のうたについて
大伴家持が越中国守になって在任したのは746年(天平十八年)から751年までの五年間で年齢は29才から34才にあたります。越中というのは今の北陸地方のことで、当時越中までは十日余り山坂を越えなければなりませんでした。今でも北陸地方は雪が多いし寒い所ですよね。幼児の頃から感受性が強くて京都の名門大伴氏の期待を集めた大伴旅人の長男である家持にとって愛妻(家持の叔母である坂上郎女の子供―坂上大嬢おおいらつめ)と別れて過ごさなければならない越中での生活は孤独で寂しいものだったと思います。都の人々を懐かしんだことでしょう。弟、大伴書持が死んだのが天平十八年だから、家持が越中に行ってすぐの事だったのですね。都から知らされた弟に死に対して兄の家持は次のようにうたったのですよ。
こういう事情を踏まえたら、このうたの訳は分るんじゃないかなあ。
万葉集というのは人間の心のうたなんだから、ただ文法を調べて訳せばいいというものじゃないよ。そうするから内容がつかめないんじゃないかな。分かり易いように、ちょっとくだけて訳してみますね。
私(家持)は都から遠く離れた田舎、つまり越中の国守となって任地に行くように天皇から命令されたので、それに従って都を出てきた時、五年間も会えない人だからということもあって弟の書持が私を見送るのだと言って奈良山を過ぎて泉川の清らかな河原で馬を止めて私と弟が別れを惜しんだ時、私は「私は元気で帰ってくるからな。お前もどうか無事で元気にして慎んで待ってろよ。」と弟に話した。あの日弟が見送ったあの日が最後に、越中と都とでは道が遠く山川が隔てているので、それだけに都を想い弟を想う恋しさが絶えないのに、そんな時逢いたいなあと思っているところへ都からの使者が来たから私はとても嬉しく思い弟の話が聞けると思って私が待ち構えて使者に尋ねると使者の言うことはでたらめの戯言じゃないのか。嘘だろう。何たることか。私の愛する弟は何としたことだろうか。死ぬ時だってあるだろうに。(弟は生まれつき花草樹が好きで母屋の庭いっぱいに植えてあったそれらを眺めて暮らしていたのに)ススキが穂に出る秋の、萩の花が咲き誇っている家の庭を、朝、庭に出て歩きまわることもせず、夕べの庭に立ちすくんで眺めることもせずに、(つまり花の好きだった弟が、萩の咲いている時、朝に死んだから時期が悪いと言っているのです)佐保の一帯の地を葬列が通過し火葬の煙が山の梢の白雲になって立ちなびき、弟はそれによって知らせたのだなあ。
これが、レポート用紙1ページ目から2ページ目の真ん中くらい。
間をごっそり省いて5ページ目。
大伴氏は古代からの名門貴族であり家持は旅人の長男だから一族の指導者だったわけ。家持は越中国守の任が終わって今後は鳥取の国守になったのよね。お父さんの旅人は福岡に来ているし息子の家持は各地を転々としているから、まあ何と言うか、大伴氏は中央政権を握る立場から段々遠ざかっていたのは確かよね。4465の歌は天平宝年二年(758)国守となって鳥取に行く前の作歌です。
説明すると、3957のうたは家持が五年間の越中生活(北陸富山)の時のうたで、五年間のお務めが終わり天平勝宝三年(751)八月都に帰ります。宮廷は腐敗していて政情が不安であり、藤原氏の仲麻呂がただ一人権力を握っていました。この頃から古代からの名門貴族は藤原氏の勢力に押され気味だったのよね。天平勝宝八年二月には親しかった橘諸兄がその職を退けられ五月には頼みとしていた聖武太上天皇が亡くなりました。その頃は孝謙天皇が治めてましたけど。その六月十七日、一族の大伴古慈悲(こじひ)が職を解かれてしまい、この時家持は藤原氏の権力に対抗意識もあって4465のうたのような大伴氏を誇るうたを作ったのですよ。しかし一方で家持はやはり動揺しています。翌年一月に親しかった諸兄が死にます。これをいいことにして仲麻呂達は聖武天皇の遺言にあった皇太子を天皇にすることを退け、四月、自分達の都合のいい舎人皇子を皇太子にしました。藤原氏に対抗していた橘奈良麻呂(諸兄の子供)は変を起こします。もちろん大伴氏は橘氏側に付いたのです。しかしこの事件で大伴氏の大半を失って家持はがっくりきたのでした。更に追い討ちをかけるように仲麻呂から軽く見られて山陰の因幡守になってまた都を離れたのです。絶望のどん底の中で都を遠く離れた家持は山陰で迎えた初めての正月で4516のうたを作ったのですよ。
6ページ目省略。 家持のその後のことが書いてあります。
7ページ目に参考文献。
それから、一番最後にこういうことばが残してありました。
もう三年生、早かったね。一年の時古典の時間に出会ってあっという間。
一、 二年と古典を授業してきたけど、まあ、私としては残念です。
やっぱり初めて受け持った生徒というのは忘れませんね。
期末考査がんばってくださいね!
これ、参考になったかな!?
このレポートを書いてくれたM先生は大学卒業したて(働いて学費を貯めた後の入学だったから二十代半ば)の古文の臨時教員で、古典が好きで好きでたまらないというのがよく分かる先生でした。今ならネットで簡単に検索できますが(3957がどんなうたかも)、手書きでこれだけのレポートを一日で書くのは相当大変だったはず。本当は全部載せたいくらいです。
当時より今の方が、ここまでして下さった先生の思いや情熱というものを考えてしまいます。
最後まで読み切った方、ありがとうございます。
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